岩殿山の歴史
東伏見邦英殿下の岩殿山訪問記
岩殿山の大日
東伏見 邦英
五智の海岸を西へ十数町、古代からの港であるという、郷津から南へ山路八町の山上に、国宝になっている岩殿山の大日がある。
岩殿山は、その頂上に近く、天然の岩屋(今は崩壊している)らしいものがあり、大国主命と奴奈川姫が、この地方を経営されたさいの、
根拠地となったところで、のちに、諏訪に祀られた建御名方命は、ここで生れたとこの地方では伝えられている。
岩殿山の大日は、その岩窟のすぐ下の小堂の中に、本尊として、厨子の中に祀られている。
金剛界の大日で、木造の坐像である。
法身は、四尺九寸とのことで、結跏趺坐(けっかふざ)した膝の幅広く、厚さもこれに比例して、相当厚く、胴との均衡もよくとれて、
どっしりした安定の感じが、全身にみなぎっている。
首・腕・胴等各部のプロポーションも、非難する隙を見出し難い程よくとれ、この片田舎の山上にあることが、不思議に思われる。
顔には、さすがに、田舎らしい稚拙さがあるが、しかしそこには、嬰児の顔の神々しさを見出した、天平後の伝統的精神が、
よく活かされており、それが稚拙な表現と結びついて、かえって、型にはまる弊害をまぬかれている。
豊かな頬、単純な目、大きな耳、巧に表現された鼻や口と、その密接な聯鎖(れんさ)、顎の辺の豊かな肉付き、寄木造の方法、
そうしたものには、藤原時代の作品として、少しも、異議をさしはさむ余地はないだろう。
左方にかかった少しばかりの衣のほか、あらわに露出されている肩や腕・手・胸等にも、藤原の肉付きを見ることができよう。
衣の襞(ひだ)も、全体に、型にはまった不自由さがなく、左肩から右方へ流れる線等ゆるやかな、とらわれない作家の気持が、現われている。
胴が、わりに扁平であるとか、白毫が、大きすぎはしないかと云うような欠点も、この時代の作品としては、むしろ、通有のことであろう。
宝冠・瓔珞(ようらく)・光背・台坐等は、すべて後世のもので、この大日を祀ってある今の堂が、元禄二年の再建であるというから、
これらのものも、大体その時に、作られたのであろう。
藤原時代の仏像がどうして、このようなところにあるか、どういう仏師が作ったのだろうか、誰が作らせたのだろうか、そうした疑問に答える、
何等の材料も見出せず、ただ、想像にまつのみであることは、まことに残念である。
この作品に、地方的味の見えることから、私は、これを中央から運んできたものでなくて、この地方で作られたものであると思う。
岩殿山は、大国主命や、建御名方命に関係して、古くから信仰されていたところであるから、本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想の発展した藤原時代には、
それらの神々の本地仏として、この山の上に祀られたのではないかとも考えられる。
それらの神々が、この地方を経営されたと伝えられることから、平安朝中期に、越後国司になった人が、同じく国土経営にあたって、
それらの神々を奉仕する念をおこし、
それに関連して、岩殿山にそれらの神々を祀ったこともあろうし、また、本地仏をそこに安置せしめたこともあろう。
それは、国守の個人的信仰からも発しうるが、人心収攬(しゅうらん)の一方法として、行政的手腕のある国守の好んでやりそうなことである。
国守が実際に赴任していなくても、国衙(こくが)の在官人が、やはり同じことをやりうる。
或は又、国守なり、介(すけ)なり、掾(じょう)なりとして滞在した人が、役を離れてもこの地方にとどまり、この地方に勢力を得るために、
民間信仰のある岩殿山に、本地仏を安置せしめ、地方人の好感を得んとしたことも考えられよう。
然しながら、この岩殿山の堂が、国分寺の奥の院と呼ばれて、全然、国分寺の管轄に属しているからといって、
直ちに始めから、国分寺と密接に関係があったと考えることは早計で、国分寺の管轄に属する前には、妙徳院という寺として、
近年まで独立していたのであり、その以前には、一二の塔頭(たっちゅう)か、僧坊を有した、相当大きな寺であった時代もあるのである。
それ以前の状態は、全く不明らしい。
又、この大日がもともと、この岩殿山に安置されるべく作られたものであるか否か、又、始めは、他に一緒に祀られていた仏像があったのかもわからない。
私は、出雲系統の神々に対する信仰と附随して、この大日如来は、本来、この山に安置されていたと考えるのが当っているように思う。
そうしてこれを作らせた人は、この仏像の優秀さから考えて、越後に赴任した中央の貴族であり、仏師の中には、中央から来た者も、加わっていたことと思う。
ずっと後世のことであるが、上杉謙信の墓が、この岩殿山に、しかも、大日の堂から、僅か十数間しか離れていないところに、営なまれたということは、
家康の墓と日光との関係にも似て、この地方の古来の霊場に墓を造ったと考えられ、それは、国土経営神に対する信仰に結びつこうとした、
平安朝の国司の行為にも、一脈の相通ずるものがあるように思われる。
岩殿山の大日は、今日も尚、盛んな信仰を持っているが、それは、国土経営神に対する信仰と、それに結びついた仏教信仰とが、両々相俟って、
この地方の人心に、深くしみこんだことによるものであって、平安朝の国司の行為が、数百年を経て、謙信の墓所の決定に関係し、
今日尚、多くの信者をもっていることは、興味あることである。
越後国分寺の本尊が、五智如来であり、それが相当古くから、本尊にされていたらしいことによって、私は、密教がこの地方に入った時代が、
かなり古いことを想像したが、ここに藤原時代の大日が現存することによって、密教が藤原時代には、この地方で、既に、盛んであったことを知ることができる。
越後の社寺にある仏像で、国宝になっているものは、非常に少ないが、岩殿山の大日は、その中の極めて優秀なものである。
九月の始めとはいえ、今夏の最高気温と同じ気温であった無風の午後、山路八町の昇降で、汗をしぼったことも、この大日を見て、決して徒労とも思わなかった。
年来、この大日を見るべく勧められ、この日は老軀(ろうく)をもって、自ら案内にたち、又、種々の接待の指図をされた高田市長、
川合直次氏の厚意を謝して、この小文を終る。
昭和八年九月二四日